「当時、有名になるにはコンテストに出るしかなかった。そこでいろんな賞をもらうようになって、最前列にいつも目立つデカい客が居たのね。それが渡辺圭一」(山口洋)

1982年のヒートウェイヴ。ロックコンテストにて。ヴォーカルは中原、山口洋は右端のギター。この日も渡辺圭一は客席の最前列に居た。

―――福岡には素晴らしいレコード店がたくさんあったということは何度か山口さんから聞いていますが、ほぼ同世代で岐阜育ちのどんとさんは、ミュージシャンじゃなかったら、NHKで『ヤングミュージックショー』のディレクターになるのが夢、と言っていたそうです。山口さんにとっても、先ほど挙げていたジョー・ストラマーのバンド、クラッシュの動く姿をはじめて見たのは、この番組だったそうですね。
山口洋 そうねぇ。あの番組は素晴らしかった。ローリングストーンズの73年のパリライヴも動くジョー・ストラマーもすべて、あの番組で観たんだよ。田舎のロック少年にとっては、貴重な番組だった。何せ、ビデオも普及してない時代だから、たった一回の放送を網膜に焼き付けるんだよ。まばたきするのももったいない。カセットをテレビに近づけて録音しつつ、カメラで画面の写真を撮影しつつ(ちなみにフラッシュを焚くと真っ白……当たり前)ね。
キース・リチャードが「ホンキートンクウィメン」で左手をまったく押さえずに弾いてるのがショックでね。それでオープンチューニングの存在を知ったりしてね。パンクは76年くらいから、ほぼ原体験で知ることができたから、力をもらったねぇ。オレはこういう生き方するぞ、と。
僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」

僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」

―――バンドを結成したヒートウェイヴ。高校生ながら演奏のできる場所は、福岡にあったのですか? 当初、ヴォーカルは別の人ということですが、バンドの形態はどのように変わっていったのでしょうか?
山口洋 福岡の中心で演奏するにはまだ早いと思ってたから。だって、ルースターズが500円で観れて、彼らはとんでもない演奏を繰り広げてたから。凄い、と思ったけど、同時に、オレにも出来るんじゃないかって力ももらった。勝手にだけど。だから、オレたちは修行しよう、と。
とんでもない田舎街にスナックがあったの。もう店の名前は忘れたけど。たぶん「憩い」みたいな名前の。そこに飛び込みで行って、「演奏させてください」って。お客さんは野良仕事帰りのおばさんたち。彼女たちの前で火を吹くような演奏をしてた。今、考えるとシュールな光景だよ。でも、おばさんたち、結構優しくてね。おひねりくれたりするんだよ。
当時、有名になるにはコンテストに出るしかなかった。そこでいろんな賞をもらうようになって、最前列にいつも目立つデカい客が居たのね。それが渡辺圭一。あいつのバンドがすごくてね。ヴォーカルがチンピラ、ギターがシンナー中毒、ドラムが暴走族みたいな。あはは。
で、あいつは光ってたから、引っこ抜いた。多分、83年とかの話だと思う。
―――池畑潤二さんがドラムを叩いていたルースターズに出会ったのも山口さんが10代、福岡にいた時期なんですね。
山口洋 北九州からやってきたルースターズは凄かった。無愛想で、とんがってて、音楽に対して貪欲で、媚を売らないし、何よりも演奏の一体感が凄かった。そして、池畑さんは怖かった。とてもじゃないけど、話かけられるような感じじゃなかった。
ガキながらに思ったんだよ。この音は年がら年じゅう音を出してないと、こうはならないってね。だから、オレたちは自分たちの狭いスタジオを確保して、365日、音を出すことにしたんだ。毎日、飽きもせずやってたよ。
(※続きます)