「友部さんを始めとする、先達が切り拓いてくれた道があったからこそ、僕らの世代の活動が比較的容易に成り立ってるんだと思っています」山口洋


写真=関口美意(2000年1月、極東地獄ラジオ収録スタジオにて)


―――シンガーソングライター友部正人さんの名曲のひとつに「どうして旅に出なかったんだ」(1976)という曲があります。友部さん独特のトーキング・ブルース・スタイルで、〈どうして旅に出なかったんだ ぼうや/あんなに行きたがっていたじゃないか/行っても行かなくても同じだと思ったかい〉と歌われるこの曲。山口洋もソロツアー「on the road, again」をスタートさせた2006年2月に、同名のタイトルを使った日記を書いています。

山口さんは友部さんと何度も共演の経験があり、友部さんの最新作『歯車とスモークド・サーモン』(2008)もお聴きになってると思いますが、友部正人さんの印象を教えてください。また、友部さんは最近では4月に、アイリッシュのバンド、Mozaikのライヴで山口洋&リクオの演奏をご覧になっていましたが、出会いからこれまでの山口洋への印象をお聞かせください。


山口洋 友部さんは「詩人」として破格の才人だと思います。随分前に何曲か一緒に書かせてもらったんだけど、「これ今朝書いてみたんだけど」と渡された紙を見て、「もう詩を書くの、やめようかな」と思ったことがあります。止めてないけど。


友部正人 久しぶりに横浜のライヴハウス「サムズアップ」で会ったとき、相変わらず多くを語らない人だなあ、と感心しました。多くを語らずに的確に伝える、ってことは、山口くんの演奏にもよく表れていて、ぼくはそういうところが山口くんの歌の気持ちのいいところだと思う。


―――友部さんは現在、日本とニューヨークの両方で暮らしていますが、アメリカへの最初の旅は1974年ということですね。ウディ・ガスリーと一緒にツアーをしていたジャック・エリオット(ランブリング・ジャック)に会うためだったということですが、その旅はどういうものだったのですか?
 


友部正人 その前に日本で全国7か所ぐらいジャックと二人でコンサートツアー(1973)をして、彼がアメリカに戻ってすぐに、追いかけるようにしてぼくもアメリカに向かいました。サンフランシスコのボーディングハウスというライヴハウスでジャックとオデッタのライヴがあったときに会いに行って、翌日ぼくはジャックと一緒にデンバーまで行くつもりだった。だけどぼくが翌朝寝坊して、起きたときにはジャックはもう出発した後で、それから20年以上ジャックとは一度も会わなかった。

ぼくはその後一人で大陸をバスで横断してニューヨークにたどり着き、日本食レストランでアルバイトしたりして過ごしました。すっからかんになってしまったからです。一週間働いたら100ドル以上にはなりました。まだ1ドル360円の時代でした。ジミー・ホップスというジャズ・ドラマーと知り合って、一緒にボストンに行ったり、楽しい毎日でした。このときの経験がなかったら、きっとニューヨークに住みたいとは思わなかったでしょう。


山口洋 僕がニューヨークで居候していた頃と、友部さんがあの街に半分住むようになったのは、ちょうど入れ違いくらいの出来事だったと思います。それからしばらく会ってなかったんだけど、またそんな季節がやってきたのかな、と俺は勝手に思ってます。


―――友部さんに影響を与えたシンガーソングライターといえばウディ・ガスリーやジャック・エリオットの他に、もちろんボブ・ディランが大きな存在だと思います。最近は『ボブ・ディラン自伝』の書評もお書きになってましたよね。

山口さんも5月の山口洋&リクオのライヴで(このツアーに「HOBO」という名前が付いてること自体、彼らの影響下にあると思いますが)、最後に「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌っていました。なかなか他人の曲をカバーすることの少ない山口さんが、リクオさんとの共演とはいえ、ボブ・ディランのこの曲を選んだ理由を教えてください。


山口洋 うん。この曲、あまりに有名すぎて、自分がやることになるとは全く思ってなかった。一番印象的なのはショーン・ペンの初監督作品『インディアン・ランナー』のラストシーンで流れたときに、異様な説得力をもって、迫ってきたんだけど。ある日、アンコールの曲が足りなくなって、その場でリクオと相談して、この曲を演奏したんだ。奴が友部さんの訳詞で歌うことができたから。その時、唖然としたんだよ。この楽曲の凄さに。あらためて。この曲を書いたとき、ディランは20代だったと思うんだけど、40代の俺が打ちのめされるくらいの普遍性と説得力があってね。友部さんの訳詞と相まって、ぐっと来て、参ったよ。


友部正人 「アイ・シャル・ビー・リリースト」は69年ごろに『グレイト・ホワイト・ワンダー』というボブ・ディラン海賊版が出てから、巷でも評判になっていました。日本ではザ・ディランという大阪のバンドがいち早く「男らしいってわかるかい」というタイトルで日本語で歌っていて、URCからレコードも出ました。当時、日本では「アイ・シャル・ビー・リリースト」といえばこの「男らしいってわかるかい」のことで、ぼくも好きでよく口ずさんでいました。

『ライオンのいる場所』(1991)のレコーディングのとき、ぼくの古いノートの中から、ぼくが訳した「アイ・シャル・ビー・リリースト」の一部分が出てきた。いつのものなのか、ぼくにはあまり覚えがないのですが。それがわりと良かったので、リクオのアレンジで録音しました。翻訳物を録音したのはそれが初めて。リクオのアレンジはとっても気に入っていて、今でもそれで歌っています。BEGINもぼくの訳詩で歌っていて、アルバムにも入れてくれています。


ライオンのいる場所

ライオンのいる場所


―――友部さんは昨年冬のニューヨークシティマラソンで3時間24分という、市民ランナーには憧れの3時間30分を切り、いまも日本とニューヨークで日々走られているそうですが、友部さんにとって長距離を走ることはどんな意味を持っているのかぜひ教えてください。


友部正人 走ることには意味はありません。走るのがおもしろいだけです。もともと遠くまで行くのがすきなので、そこまで走っていけたらと思います。


山口洋 俺、実はO脚で、無意味に根性だけあるんで、長距離を走ると、すぐに膝を痛めるのです。なので、野球専門です。


―――このサイトでは前回、埼玉県入間にあるMusic Cafe「SO-SO」のオーナー酒井夫妻にインタビューをしたのですが、友部さんのライヴスケジュールを拝見すると、今年3月の終わりに「SO-SO」のアニバーサリーライヴにやはりご出演していますし、ライヴハウスから野外フェス、書店やコーヒーハウスなど、さまざまな場所で歌っています。

山口洋ヒートウェイヴは昨年『land of music』という、「音楽のある場所」をテーマにしたアルバムをレコード会社に頼らず制作し発表し、それ以降のツアー、山口洋リクオの「HOBO JUNGLE TOUR」、また夏からスタートするソロツアー「on the road, vol.4」と、友部さんのようにどこにでも歌いに行く(山口洋曰く「ギターを持った渡り鳥」)という活動をしています。自分のペースで音楽を創り、届けに行くという先駆者として、友部さんから山口洋に何かアドバイスがあったらお願いします。


友部正人 一人だとどこにでも歌いに行けます。ぼくが歌い始めた頃日本にはまだライヴハウスなんてなくて、歌を聞いて欲しければホールを借りるか道端しかなかった。だからライヴハウスに頼らなくても歌っていけると思っています。必要なのは場所よりも聞いてくれる人です。聞いてくれる人がいて、その人たちが喜んでくれるのなら、ぼくはどこにでも歌いに行きます。


山口洋 敬服。友部さんを始めとする、先達が切り拓いてくれた道があったからこそ、僕らの世代の活動が比較的容易に成り立ってるんだと思っています。敬服。アゲイン。


歯車とスモークドサーモン

歯車とスモークドサーモン