「『自由』を求めて、音楽をやってきたのに、プロになった瞬間にものすごい違和感があったんだ」(山口洋)

―――ファーストアルバム『柱』(90年)から約8ヶ月というインターバルでリリースされたセカンドアルバム『凡骨の歌』(91年)。『柱』ではカメラ目線がなかった山口さんが、ついにジャケットカバーでレンズを見据えていますが、メジャーデビューから『凡骨の歌』の期間で感じた福岡でのDiY時代と、メジャーとの違いはどんなところにいちばん強く感じていましたか?
音楽雑誌も次々にデビューしてくるバンドの数にあわせるように創刊が続いた時代の中で、ヒートウェイヴのインタビューはたいてい「不機嫌にしてる」というイメージを読者として持ったのですが、アルバムリリース時のインタビューなどは、当時あまり積極的に挑んでなかったんですか?
山口洋 8ヶ月ってさ。今考えると無茶苦茶だよね。確かに曲のストックはあったけど。でも、これがザッツ日本なんだよ。レコード会社にしても、事務所にしても、デビュー盤出して、勢いのあるうちにって感じなんだろうけど。お前が曲書いてみろって話だよ。あー、振り返ったら、腹立ってきた。
オレは本能的にこれはおかしいって感じてたんだろうね。だから、苛立ってたんだと思う。歌いたい事があって歌を書いてたはずなのに、何だか無茶苦茶なレールに乗せられて、考える時間も充分に与えられないまま無理矢理書かされてるってことにね。そして、後で気づくと「権利」と名のつくものは、いろんな人間にがっつり持って行かれてるってことにね。
―――ライナーノートによると『凡骨の歌』の収録曲のほとんどは福岡で書かれたということで、「灯り」を書き上げたときのエピソードは以前伺いましたが、今回は「ON MY WAY HOME」について教えてください。当時、ライヴ会場で会ったのか、ロッキングオンの編集者だった川崎大助さんが、「今度のアルバムにあの『ON MY WAY HOME』が入るって知ってます?」と興奮して伝えてくれたのに、僕はその曲のことを全然知らなかったのです。
山口洋 その曲はデビュー前にロッキングオンに送られたデモテープの中に入ってたんだ。
彼らはデビュー前の俺たちを東京まで呼んで取材してくれたりね。随分、力を注いでくれたよ。
写真はどんととの共演。多分1992年。
―――この時期、はじめてヒートウェイヴのライヴを観たのですが、真剣を正眼で構えている山口さんに間合いを詰められているような、緊張感に満ちた空間が印象的でした。曲が終わるとギターのチューニング。その間は無言。わずかなノイズを嫌って会場のエアコンを止めさせたジョアンジルベルトのライヴとはまた異質なタイプの唾を飲み込むことさえためらうようなスリリングな時間。あれは何だったんでしょう?
山口洋 何なんだろうね。良く分からないよ。自分でも。
ただ、ライヴをやっている時だけが本当に「自分の意思で」生きている時間だったんだろうね。最初の質問への答えにもあるように、「自由」を求めて、音楽をやってきたのに、プロになった瞬間にものすごい違和感があったんだ。
ライヴの緊張感って意味ではね、実は今も変わらないんだよ。ソロのライヴの時なんかね、客席のすべての音が聞こえてるんだ。耳がいいってのも考えものでね。もっとがさつな耳だったら良かっ たのに、と思うこともある。
(※続きます)