オレと圭一はルー・リードの『legendary heart』みたいな作品を作りたかった。(山口洋)

―――1992年にはアルバム『陽はまた昇る』をリリースしています。新たな旅立ちのための別れを歌った歌が多いように感じました。怒りよりも内省。夜が終わって陽が昇る前の、手つかずな一日を迎えるために必要な音楽。
ファンとしてはバンド編成が謎でした。ジャケットに映っているのは、山口さんと渡辺圭一さんだけですよね? この時期、ヒートウェイヴはどんな状況だったのですか?
山口洋 そうねぇ。まず上京して最初に住んでた千葉から東京に引っ越した。でも、そこは一日中光が入らない部屋だった。それはそれで気が狂いそうだった。圭一は圭一で、子供が生まれて、あの状況でお互いに音楽で生きていくのは大変だった。プロとして生きて行く厳しさの中で、最初にドラマーが離脱して、バンドは二人組になってしまった。
そんな日々に感じたことを紡いで、精一杯の希望を込めて『陽はまた昇る』を作り上げた。メインディッシュのない、小鉢みたいな曲が一杯入ってるようなアルバムだけど。オレと圭一はルー・リードの『legendary heart』みたいな作品を作りたかった。本当に「靴を磨く」ことしか出来なかったんだよ。
そして、オレは国外に出た。もうこの国に居ることは無理だと思ったから。年の半分は音楽をやるために日本に居たけど、後はギターを抱えて、世界中を流浪してた。母親をひとり故郷に残してなかったら、きっと今頃違う国に住んでたと思う。実際、旅の中で、何度か決断を迫られたんだけど、それはどうしても出来なかったし、後悔もしてない。
―――同年、『不滅の地獄アワー』(1992年4月〜94年3月オンエア)というラジオ番組が始まっています。これはどんな番組だったのでしょう?
山口洋 自分で云うのも何だけど、良質の音楽番組だったと思うよ。ラジオには恩義があったしね。月曜がフィッシュマンズで火曜日がオレ、みたいな。まだラジオにも良心があったんだね。
イントロにのっかって喋るなんてことはしないし、曲は必ず最後までかける。この番組で知り合ったリスナーはたくさん居るし、未だに応援してくれてる連中もたくさん居る。
まだメールも何もない時代の話さ。毎週、ラジオ局に全国からたくさんはがきが届いてる。
沖縄では桜が咲いたのに、北海道は大雪、とかね。
―――バンドツアーとは別に、「歌の宅配便」という、いまの「on the road, again」につながるソロツアーも始まってますよね。
山口洋 イベンターが居るライヴも別に悪くはない。でも、それだと何処の街に行っても同じなのよ。駅や空港に迎えが来て、車で会場に運ばれて、ライヴをやって、打ち上げ。そしてまた移動。
その街で演奏する意味、みたいなものをもっと感じたかったし、見つけたかったんだ。だから、オレの歌を必要としてくれる人が居れば、何処にだってでかけていくことにした。北海道から沖縄まで、果てはオーストラリアにも行ったな。いい経験をたくさんさせてもらったよ。
―――バンドは東京では新宿パワーステーションをホームにライヴを重ねていました。パワーステーションと雑誌CDで〜たとの企画で「What's So Funny 'Bout Peace, Love And Understanding」のCDも出しましたね。
山口洋 あそこはいいハコだったなぁ。二階席に何故か加賀まりこさんが良くいらっしゃって、ご飯を食べながらヒートウェイヴを観てた。あはは。未だに謎なんだ。圭一がワイヤレスで、ベース弾きながら二階席まで行って、客のスモークサーモン喰ってたなぁ。懐の深いハコだったなぁ。バブルの正しい金の使い方って感じさ。あはは。
そのCDを出したのは、その曲にずっと励まされてきたからさ。「愛と平和と理解のことを歌うのが何がそんなにおかしいんだ?」って。今でもそう思ってるよ。
(※続きます)


写真は本牧アポロシアターにて「陽はまた昇る」の公開リハーサル。1992年。ドラムはサポートの友田真吾。