で、決断した。今回はオレの頭の中にある景色を伝えることを優先しようって。オレはほぼすべての楽器を演奏した。辛い経験だったよ。(山口洋)

―――『陽はまた昇る』を1992年にリリースしたあと、隙を見つけてはギターを持って海外を旅するようになったということですが、最初、もっとも多く訪れていたのはニューヨークのはずですよね。様々な小説、舞台、映画、音楽で描かれ、多くのアーティストが活躍した街ですが、初めてニューヨークに行く前に、山口さんがいちばん強くニューヨークを意識していた作品、あるいは人は何(誰)ですか?
山口洋 高校生の時に聞いたルー・リード。あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンド。叫ばなくてもロックはできるってこと。「walk on the wild side」には5人のロクでもない人間が出てくるんだけど、優れた曲は短編映画に勝るってこと。舞台がNYってこと。あるいはNYって街があの歌を書かせたってこと。
「tokyo city hierarchy」はあの歌とAl Kooperの「NY you're a woman」に対するアンサーソングなんだ。自分が暮らす街東京の。
―――旅を重ねたあと、制作されたアルバム『NO FEAR』(1994年)のジャケットは、ニューヨーク在住のフォトグラファー、トシ風間さんの撮影です。彼と知り合うようになったきっかけを教えてください。また、湖の中に立つ姿、これはどこで撮影されたものなのでしょうか? 手で顔を覆っているのは、デビュー時にレコード会社から「顔を出してくれ」と要求されたことへの抵抗なのでしょうか?
山口洋 NYに長期滞在するにも貧乏だったから、トシを紹介してもらって、居候したり、彼の暗室だったアパートに信じられないような値段で住ませてもらったりね。当時のイーストビレッジ、特にアルファベット・アヴェニューと呼ばれるエリアは最高だった。いろんなアーティストがうじゃうじゃ居てね。危険でね。そのド真ん中に居る訳だからね。毎日が刺激的だったよ。
そのうち、彼と一緒に旅に出るようになった。あっちこっち行ったなあ。ある時、オレはアシスタントだったし、ある時はミュージシャンとフォトグラファーとしてね。あんな無茶はもうできないだろうけど、本当に楽しかったし、いろんな事を学んだ。
あのジャケットはね、どこだっけ。多分アリゾナじゃないかな。「お前、顔がダメだから隠せ」って。もちろんトシの要求。別にレコード会社に抵抗してた訳じゃないよ。その頃の俺たちのレコード会社のスタッフは最高だったしね。
―――レコーディングクレジットを見ると、山口さんがベースやドラムまで担当した曲もあり、細海魚さんが、プロデュースに「ヒートウェイヴ&細海魚」とクレジットされていて、ピアノやアコーディオンでも参加しています。この時期のバンドはどんな状況だったんですか?
山口洋 問題はね、ここなんだよ。オレは年の半分は日本に居なかった。世界中を流浪していろんなものを吸収して、やる気満々で帰ってくる。頭の中に破裂しそうなくらい沢山のイメージがある訳だし。ところがどっこいオレ以外のメンバーはずっと日本に居て、バンドの活動もできない訳で。帰ってきて、スタジオに行っても、ぜんぜんオレの云ってることと、出してる音とバンドが噛み合ないんだよ。仕方がないけど、辛かった。
でも、作品は出したいし、出さなきゃならない。もちろんトライはしたんだよ。でも全然録れない。で、決断した。今回はオレの頭の中にある景色を伝えることを優先しようって。オレはほぼすべての楽器を演奏した。辛い経験だったよ。ドラマーが目の前に居るのにオレはドラムを叩いてるんだからね。もう二度とごめんだよ。(細海)魚にも随分力を貸してもらった。でも、それだけのものが詰まってるアルバムだと思うよ。『NO FEAR』は。
実は公開されてないけど、レコード会社も頑張ってくれて、マスコミ向けに試聴会をやったんだ。それだけのためにPVを作ったりしてね。オレのNY時代が沢山映ってるやつなんだけど。アポロシアターで「carry on」を歌ったりするって、貴重なやつ。撮影したのはもちろんトシ。どこかで発見したら、是非youtubeやなんかで観てもらえるといいんだけどね。
―――東京地獄新聞のインタビューをまとめた本『HEATWAVE 1999-2000』の中の、近藤智洋さんとの対談で、1993年12月18日、渋谷Egg-manでのオールナイトライヴのことが触れられています。〈あのときね、立っとくのがやっとだったんだよ、確か。すんごい疲れてて。でもなんかやらずにおれないみたいな。朝までやってた。(『NO FEAR』の)レコーディング中に突然ライヴがやりたくなって、でも突然だから会場が空いてなくてさ。Egg-manだと深夜、誰も使ってないから、「出させろ!」って言って。それでやったんだよ〉と。ヒートウェイヴ史上でも伝説のライヴですね。
山口洋 ちゃんとした記憶がないんだ。政治家の答弁みたいで申し訳ないんだけど。きっとバンドが好きなんだってことを確認したかったんだと思う。
確かね、夜の10時くらいから、始発の電車が走るまで演奏してたよ。とにかく、自分たちが音楽を好きでいることと、それを生業にすることと、世界中で起きていることをこの目に焼き付けたいこと、そして「結果」を出さねばならないこと。その狭間に立たされていて、気持ちは全然楽じゃなかった。相変わらずビンボーだったしね。でも、その頃の表情を観たりすると、いい顔してるよ。ぜんぜん顔はできてないんだけど。
(※続きます)


ライヴ写真2枚は1994年、パワーステーションにて。