何もなかったところから、楽曲の力だけで、人が繋がっていくのを見ているのは痛快だったよ。(山口洋)

TOKYO CITY MAN

―――1996年、野茂英雄メジャーリーグに移籍して2年目、コロラドロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成した年です。
ヒートウェイヴは、前作『1995』で、それまでのレコード会社との契約が終了し、事務所とのマネージメントもなくなり、バンドは……、バンドの実態も、誰がバンドメンバーなのか、ファンですらよく把握できない時期でした。この1996年に書かれ、録音されて、1997年3月にリリースされたアルバム『TOKYO CITY MAN』のクレジットを見ると、曲ごとにドラムもベースも違います。
アルバムの帯には、〈何ひとつ学ばない男、山口洋が綴る愛と焦燥と混沌の記憶〉とあります。つまり、この時点でヒートウェイヴ山口洋である、ということだったんですよね?
  山口洋  アルバム『1995』は渾身の作品ではあった。バンドは無茶苦茶な状態だったんだけれど、その枠を超えて、メジャーのフィールドで全力を尽くしてみた。佐野元春さんの力を借り、デザイナー、スントー・ヒロシの力を借り、エトセトラ。実際のところ、僕の世代にとって1995年は「1Q84」でもあるのさ。地下鉄サリン事件があり、震災があった。不気味だったんだ。
そして「満月の夕」が生まれ、「オリオンへの道」を書き。「再生への希望」を込めた。でも、あまり通じなかった。
僕もね、あの頃は打たれ弱かったんだよ。かなり凹んだ。そしてソニーを離れ、事務所も辞めて、完全にタダの人になったんだ。そこで何も湧いてこなけりゃミュージシャンで居ることも辞めてしまおうと思ってね。何処かの国で暮らして、日本人であることも辞めてしまおうと思ってた。
ところがどっこい。フリーになって3日間もたたないうちに、湯水のように曲が湧いてくるんだよ。
止まらないんだ。僕は大丈夫だと思った。ミュージシャンにとっての財産は曲でしかない。
そうやって「ヒエラルキー」や「ミスター・ソングライター」、「愚か者の舟」なんかを一気に書き上げた。今だから云うけど、天才だと思ったよ。僕はもう一度やり直すことにした。
それらの曲を持って、ユニバーサルと契約し、事務所も決めた。あっと云う間だった。
ヒートウェイヴと云う名前は残っていたけれど、そこに居たのは僕ひとりだった。レコーディングしながら、僕は共に演奏できるメンバーを探した。モット・ザ・フープルに居たモーガン・フィッシャーが僕に興味を持ってくれた。ザ・ブームの山川(浩正)君がベースを弾いてくれた。最後に伴慶充がドラムセットに座った。そして、やりたいことを全力でやって、エンジニアにはヴァン・モリソンを長年担当しているミック・グロソップが。僕はマスターテープを抱えて、一人でロンドンに渡った。
撮影は北京で行い、ジャケットは横尾忠則さんが描いてくれた。それはスントー・ヒロシの力が大きいけどね。そうやって、何もなかったところから、楽曲の力だけで、人が繋がっていくのを見ているのは痛快だったよ。新しい事務所も、レコード会社も気合いが入ってた。そんなタイミングってのは稀にやってくる。結果、『TOKYO CITY MAN』はバンド史上最高のセールスを記録したんだ。
―――契約がなくなり、バンドはひとり。でも、「独りじゃないさ」という言葉がまさにあてはまる、様々な出会いがこのアルバムの誕生を支えているようです。
直接的なコラボレーションの他にも、誰かがそれぞれの場で戦っていたことが、山口さんに刺激を与えていたのかもしれないって勝手に思うんです。野茂投手もメジャーリーグで孤軍奮闘していたし、この年、カズ山本選手は39歳という年齢で入団テストを受けて近鉄に復帰した。山口さんの同世代のミュージシャン、宮沢和史は念願のブラジルツアーを行なっていた。あの1995年の翌年、未熟だろうが寂しげだろうが醜かろうが、沢山の天使達を路上に見いだした「トーキョーシティーヒエラルキー」は、誰かが書かなくてはいけなかった物語だと思います。
山口洋  曲を書くときに、稀に最初から歌詞がついていることがある。滅多にないんだけど。
ある日突然頭の中に「トーキョー シティー ヒエラルキー」ってあのメロディーと歌詞が湧いてきたんだ。それがどういう意味を持つのか、曲を書き上げながら理解していった感じで、とても不思議な経験だった。
多分、頭の中が6年間の東京生活でイメージが満タンになってたんだと思う。それが化学反応を起こして、突然出てきたんじゃないかな。「船長、もうダメです。放出しないと耐えられません」って。
NY居候時代にね。WNEWと云う素晴らしいラジオ局があって、いつも聞いてた。20ドルくらいのラジオを買って。夕方になると「walk on the wild side」が必ずかかる。ある種の人たちにとって、あの曲は自分を映す鏡なんだよ。今日の俺はどうだったんだって。だから、そんな歌を書きたかったんだ。あの曲には5人の愛すべきどうしようもないフリークスが登場する。僕は6人の東京に暮らす人たちを書こうと思った。転調していくアイデアはどうしようもないこの世のヒエラルキーを表現するため。それはもうひとつのNYの名曲、アル・クーパーの「NY, you're a woman」の手法を借りた。
あの曲を完成させるのはとてもクリエイティヴな作業だった。まるでスピーカーの間に絵が浮かぶみたいに、作業が進んでいったんだ。スタジオに居た全員で情景を描く。それは本当に僕が心から望んでいた姿で、後に桜井君(Bank Band)がカバーしてくれて、嬉しかった。
ある人が云ったんだ。僕のバージョンは地面からの視点で、彼のは俯瞰だと思うって。そうかもしれないね。
アルバム『TOKYO CITY MAN』はルー・リードの「NY CITY MAN」への勝手な連帯で応えでもある。東京はとてつもない街だけれど、美しいと思うこともある。醜いけれどね。
ドブに映る夕陽が奇麗なんだよ。自分の手を汚して、懸命に生きる人たちの側に居たい、と僕は思うんだ。今も昔も、そしてこれからも。