緊張感、高揚感、エトセトラ。音楽の奇蹟を感じたよ。本当に嬉しかった。(山口洋)

―――アルバム『TOKYO CITY MAN』をリリースした1997年8月、ヒートウェイヴは新宿パワーステーションで、3週連続ライヴを行ないました。1週目のゲストはTHE GROOVERS、2週目は小谷美沙子さん、そして3週目が、ドーナル・ラニー・バンド、シャロン・シャノン
1997年8月、最後の水曜はBig Wednesdayでした。アンコール・セッションでは、ブズーキという弦楽器をサウスポー・スタイルで弾くドーナル・ラニーがステージの下手端から、中央の山口洋に何度も視線を送る。マイクスタンドの前の山口洋は、なんと、笑顔で泣いてる! 「ヒートウェイヴを結成して18年、最良の日です」「生きててよかった!」というなんとも無防備に感動を表すMC。ヒートウェイヴの4人と、イーリアン・パイプ、パーカッション、シャロン・シャノンアコーディオン、そしてドーナル・ラニー。この夜だけの編成で紡がれた、まさに「生きててよかった!」という高揚を感じました。ヒートウェイヴの転機となるようなライヴであり、出会いだと思ったのですが、いま振り返ってみていかがですか?
山口洋  そうねぇ。あのライヴはそれまでやってきたことに対するギフト以外のなにものでもなかったよ。
彼らは僕にとって、大好きだった音楽の最高峰だからね。共に音楽を奏でることにあんなに興奮かつ、心動かされたことはないよ。田舎から出てきた野球少年が、大リーグのバッターボックスに立ったみたいなもんだからね。
緊張感、高揚感、エトセトラ。音楽の奇蹟を感じたよ。本当に嬉しかった。
―――アイルランドへの頻繁な、まるでアイリッシュウイスキーの密売人のような、渡航が始まったのもこの時期ですか? のちに本『the homes of Donegal』にもまとめられるのですが、なぜ「NY居候男」がアイルランドを旅するようになったのですか?
山口洋  いや、もっとずっと前からだよ。
子供の頃から、あの国の音楽に何故か反応してたんだ。無条件に好きだったんだ。
そして一年の半分を外国で暮らす、流浪するようになって、NYで居候してたときに、仲良くなるのはやっぱりアイリッシュかプエルトカンだった。で、アメリカから渡ったのが最初。ロックンロールの源流はアフリカとアイルランドにあるんだ。それを探しにね。
―――そしてヒートウェイヴは、山口洋山川浩正、伴慶充、モーガン・フィッシャーという4人でライヴを行ない、レコーディングを始めます。この3人について教えてください。
山口洋  僕はもう一度バンドにしか出せない音を構築しようとした。
モーガンには経験に基づく豊富な引き出しと世界的な人脈があった。オノ・ヨーコさんからミック・グロソップまで。ミックはね、ジミヘンのレコーディングもしてるんだ。レジェンドなんだよ。彼が語ってくれる話を聞くのは面白かった。モーガンはね。諦めないんだ。納得するまで、何度だってやり直す。僕とは正反対。それが良かった。
山川君はね。とてつもない人格者。彼が怒ったのはたった一回しかみたことがない。そして、まぁ、本当に、呆れるくらい飲んだね。あの頃、僕らはまだ若かったんだ。午前様でスタジオを出て、朝まで飲んで全てを洗い流して、昼にはスタジオに出勤。ぜんぜん平気だった。でも彼は努力を怠らない。ステージに譜面を置いてるのを見たことがない。全部、体に入ってるんだ。音楽が。
伴ちゃんは何度うちのオーディンション受けたんだろう? 正確には覚えてないけど、諦めないのさ、懲りないっちゅーか。ビートが好きだったんだよ。歌いやすいんだ。
生まれた場所も性格もてんでバラバラ。でも合宿を繰り返して、だんだんバンドの音になっていった。
僕は南青山にある会社が借りるようなスペースに住んでいて、そこでリハーサルもやってた。で、モーガンの音がデカすぎて、僕は追い出された。あはは。そんなこともあったな。