「もともと山口さんのDJによる『不滅の地獄アワー』というラジオ番組が大好きだったんです。この番組のおかげでたくさんの音楽を教えてもらって、僕らのミュージック・ライフはものすごく充実したものになったんですね」宮本弘二

撮影=山口洋

―――岡山市コミュニティFMRadio MOMOで毎週土曜19時からオンエア、60分間の音楽番組『メガトンロックンロールショウ』がこの秋、10周年を迎えたということで、おめでとうございます。本来なら地元密着型であるコミュニティFM局でも最近は制作費削減のために東京から番組を買って流すことが多い中、岡山で音楽番組を作り続けるというのはとても大変なことだと思います。選曲、DJを担当する宮本弘二さん、國定正浩さんは、「NO FEAR/NO MONEY企画」という名前でラジオ番組だけでなく岡山でコンサートを開催したり、ミニコミ『Pieces』(編集注:1999年、ヒートウェイヴ『日々なる直感』についてのインタビューがこちらで読めます)を発行したり、まさに地元・岡山で「land of music」を作り続けてきました。まず、放送10周年記念ということで、『メガトンロックンロールショウ』についてお訊きしたいのですが、番組のコンセプト、ラジオというメディアの魅力を教えてください。
宮本弘二 もともと山口さんのDJによる『不滅の地獄アワー』(1992年4月〜94年3月オンエア)というラジオ番組が大好きだったんです。この番組のおかげでたくさんの音楽を教えてもらって、僕らのミュージック・ライフはものすごく充実したものになったんですね。でも残念なことに、このすばらしいラジオ番組は1994年に放送終了をむかえてしまったんです。
その後、時は流れて1998年9月に、岡山では二度目となる「歌の宅配便」が、僕らではなく、Kさんという女性の主催でおこなわれたときのことです。その年の5月に、アルタンというアイルランドのバンドを岡山に呼んだんですが、このライヴで僕らの活動を知った、当時開局まもないRadio MOMOのディレクターが、僕らにぜひ番組をやってもらいたいと言ってくれたんです。願ってもないことでした。『不滅の地獄アワー』のような番組を僕らの手でやってみたい、その一心で番組をさせてもらうことになったんです。コンセプトといえば、普段あまり電波に乗らない良質な音楽を届けるということに尽きます。ま、最近は僕らにとっての懐メロもじゃんじゃん流れてますけれども(笑)。はじめた当初には十年もつづくとは思ってもみませんでしたが、「地味に地道に」という僕らなりのスタンスでつづけてゆければいいなと思っています。
ラジオっていうのは、音楽を紹介するにはもってこいのメディアだと思います。「音」に集中できるわけですから。僕らも十代のころにはレコードを買う余裕がなかったので、ラジオがすごく大事でした。FM雑誌を毎週買って、エアチェックをしてといった感じで、ラジオから受けた恩恵は大きいんですね。大人になったいまでも、自分の好きな曲がラジオから流れてくるとすごくうれしいし、オーディオやカーステレオで聴くのとはちがって、その曲をたくさんの人と共有してる感じがするので、なんだか特別なんです。
山口洋 そうねぇ。この時代にラジオを続ける、しかも10年ってのはミラクルだとしか言いようがないね。俺も1987年から数年前までラジオをやってたから(編集注:2005年までオンエアの「極東地獄ラジオ」のこと。番組サイトには全オンエア曲リストを記録)、思い入れはある。でも、良質の音楽を紹介するって意味に於いて、どうにもならない時代なんだよ、残念ながら。そんな中で、「ライフサイズ」で番組を続けてる彼らのような連中が、少なからず居てくれるってのは嬉しいねぇ。
そうそう、ソロツアーで「受験勉強しながら聴いてました」みたいな事を云ってくれるファンが今はお母さんになってたりしてね。俺自身がラジオで育ったみたいに、続けてきたことは無駄じゃなかったんだって、今頃教えられてるよ。骨のあるディレクターが居て、状況が整ったら、またやってみたいとは思ってるんだけどね。
―――宮本さんたちは、1993年、岡山オリエント美術館地下ホールでの山口洋「歌の宅配便」以来、98年にはアイルランドのバンド「アルタン」、ヒートウェイヴのライヴも何度か主催していますよね。宮本さんをはじめ「NO FEAR/NO MONEY企画」のみなさんは、音楽制作のプロでもなくそれぞれに仕事を持っている人たちですが、なぜライヴを主催してきたのですか? ライヴを主催することの喜びを教えてください。
宮本弘二 1993年の「歌の宅配便 in 岡山」は山口洋の歌声を自分たちが岡山で聴きたいという単純な思いで主催したんですが、これはこれで終りだと思ってたんです。みんな、いい思い出ができたね、くらいの感じで。だから、そのとき岡山駅のホームで山口さん、そして一緒に身銭をきって見にきてくれてたエピック・ソニーや事務所のスタッフと別れるのが、それはもうつらくてつらくて。今生の別れみたいな。でも、その翌年、当時のヒートウェイヴの事務所の社長さんから、岡山でバンド版「歌の宅配便」をやってみないかと言われまして。おどろいたけど、なんとかやってみようと。それがいまにいたる最大のきっかけとなりました。チャンスをくれた社長さんには本当に感謝しています。
当時は、ヒートウェイヴの音楽をもっともっと広めていかなきゃとか、地方にも豊かな音楽をとか、大層な能書をかかげて青臭く突っ走ってたなと、いま振り返ってみればそう思います。でも、そういう活動をつづけるなかで、山口さんとのつながりがさらにひろがって、アルタンやリアム・オメンリィ(編集注:前述の山口洋の『極東地獄ラジオ』にリアムがゲスト出演時のレポートはこちら)を岡山に呼ぶことができたのも事実です。
ライヴというものは演奏者とお客さんの双方でつくりあげてゆくものだという持論がありまして、それがうまくいったときっていうのは、主催者冥利に尽きますね。1999年12月のヒートウェイヴのライヴのときに、当時ベースを弾いてた山川浩正さんが「岡山はヒートウェイヴにとってホームだ」と言ってくれたんです。それがものすごくうれしかった。なんか、やってきた甲斐があったかなと。その後、2004年には僕ら主催ではなく、イベンター主催でヒートウェイヴが岡山にやってきまして。それもうれしかったなあ。
山口洋 彼らは全国に草の根的に広がっていった僕らのファンの原点みたいな存在でもある。そして、未だに応援してくれてるし、俺も音楽を続けてる。彼らが日々の暮らしの中で、関わってくれてるのが、とても嬉しいよ。何であれ、俺は立ち続けなきゃいけないと思ってるし。それが苦痛でも何でもない。ようやくそれを楽しめるようになった俺を見てくれて、彼らの日々が少しでもハッピーになることを願ってる。
―――今回の山口洋ソロツアー「on the road, again vol.4」も、11月3日、岡山Blue Bluesで行なわれました。いかがでしたか?
宮本弘二 Blue Bluesという会場は、去年(2007年)の「on the road, again vol.3」のときにはじめて使わせてもらったんですが、そのときに、「この場所が山口洋にとっての岡山でのホームになるかもしれないな」という思いがかすかにありました。かざらなくて、あったかくて、店主の腰が低くて、おでんのにおいにつつまれてて(笑)。そして、今年3月のヒートウェイヴのライヴで、その思いが確信に変わりました。まあ、ライヴ会場としては音響面や設備面で問題がないとは言えなくて、山口さんもやりにくいところも本音を言えばあるのかもしれないんだけど、「ハコ」と山口洋(およびヒートウェイヴ)との相性がいいような気がするんです。この11月のライヴも、それがよくでてたと思います。
以前だと、ライヴ中に、山口さんは気持ちよく演奏しているだろうかとか、お客さんは楽しんでくれてるだろうかとか、いろいろ気になったりしたんですが、いまは主催者もお客さんと一緒になって楽しんでます。会場内を禁煙にしたり、座席の配置に気を配ったり、開演時刻をなるべく守ってもらったりと、自分がお客さんだったらこうしてほしいなと思うことを主催者が考えるというところも僕ら主催のライヴの特色かもしれません。お金を払って見にきてくれるお客さんに「いいライヴだった」と言ってもらえることが一番のよろこびなので。
山口洋 何だかね、あの会場が「完成」されてないとこが好きなのよ。俺も会場も主催者もライフサイズの中で育っていくみたいなところが。音響の機材が素晴らしいものでなくても、それを乗り越えるだけのスキルは身につけたし、それはライヴパフォーマンスに於いて、第一義的なことじゃない。あそこを訪れる度に、いろんなところが改良されてるし、主催者も 力入りすぎてないところが好きだし、前日に岡山に入っても、気をつかって放置してくれるし、つーか、主催者の子供達が育っていくのを観るのが嬉しいねぇ。ちょっと気分はオジサンなんだけどさ。最近、歌を書くときに、あの子達の表情が頭をかすめるんだよ。俺たちの未来は彼らの未来でもあるわけでさ。哀しみなら溢れるくらいあるけど、昔の俺ほどひ弱でもない。だから、前を向いて、来年も行くぜ。いつも、ありがとう。